函館開港150周年記念連携事業「鯨と食文化を語る市民の集い」が、8月15日14時からホテル函館ロイヤルで開催されました。会場には300名の市民が集まり熱心に話を聞いていました。
函館市副市長谷沢広氏、主催者である鯨食文化を守る会会長の小泉武夫氏のご挨拶のあと、甲南女子大教授 森田勝昭氏により「日本開国と日米捕鯨事情」と題して基調講演がありました。
基調講演では、函館で行われていたツチクジラ小型捕鯨、日本で伝統的に行われていた網とり式捕鯨とアメリカが行っていた帆船式捕鯨の違い、また、開港直後に函館にたびたび寄港していたアメリカの帆船式捕鯨船フロリダ丸の航海日誌から、日本開国と日米の捕鯨事情を浮き彫りにしていきました。
その後、日本捕鯨協会によるIWCの現状とシーシェパードによる妨害行為のプレゼンテーション。休憩を挟み、後半はパネルディスカッション「函館開港とくじら」が行われました。
パネラーは甲南女子大学教授 森田勝昭氏、北海道大学准教授 松石 隆、東京農業大学客員教授 野口真希氏、クジラ食文化を守る会会長 小泉武夫氏、コーディネーターは 水産ジャーナリストの会会長 梅崎義人氏です。
ディスカッションでは、IWCと妨害行為について、チラシに使われた「蝦夷風物之図 箱舘澗で鯨猟」について、北海道での鯨食文化普及について、自給率向上について、など幅広い議論が行われ、それぞれの持論を披露しました。
終了後は、鯨製品配付の他、鯨竜田揚げとハンバーグの試食が行われ、また、鯨料理の展示とレシピの配付
も行われました。
参加者からは、「大変勉強になった」との声も聞かれ、次回開催への期待の声も上がっていました。
↓基調講演、およびパネルディスカッションのうち松石発言分の要旨はこちら↓
函館開国と日米捕鯨事情 甲南女子大学教授 森田勝昭
2009年8月15日 函館開港150周年記念連携事業 鯨と食文化を語る市民の集い
函館ロイヤルホテル
■小型沿岸捕鯨について
現在、唯一商業捕鯨をしている捕鯨形態である小型沿岸捕鯨について紹介する。捕鯨船1船につき乗組員は4~6名。定時連絡は水深や鯨群の行動を通信する。毎朝3時30分に出港、1000m等深線をぬって探鯨する。午後遅く捕獲する場合は、渡鯨が深夜に及ぶこともある。
IWCの規制外種であり、水産庁の管理の下に実施されている。小型沿岸捕鯨に代表される日本の捕鯨は数百年の歴史を持つ。
■網とり式捕鯨
日本で本格的な網とり式捕鯨が始まったのは17世紀の初頭。紀伊半島南部地方、山口県北部地方、北九州島嶼地方、四国南部地方で行われた。網で動きをとめて、銛を打つ漁法。
陸に近づいてきた鯨を誘い込むような地形「網代」で行われる。従って他の場所ではできない。
陸上班は納屋場 300~500人。海上作業班 沖合300人 と山見(司令部)。陸上作業班=納屋場では解体処理、調製などを行い、精密な分業と大規模な流れ作業からクジラの完全利用をするという日本の鯨文化を創った。
海上作業班=沖合は、洋上で鯨を捕獲するが、その指揮は陸上にいる山見がする。このように、網とり式捕鯨は陸地的捕鯨。
鯨組は2つの仕事をする。一つは捕鯨活動。ここでは科学的研究と合理性追求が行われる。もう一つは儀礼と儀式、鯨の位牌を作ったりお墓を作ったりし、また羽差という儀礼を行う。これは超自然への配慮であり、乱獲を抑制する文化装置であった。実際に網代ごとに、毎年捕獲頭数はほぼ一定数であった。
■アメリカ型捕鯨
函館が開港する頃がアメリカ式捕鯨のピークであった。アメリカ式捕鯨の母船は約500トン。ボートが4~5隻ついていて、乗組員は1ボートに6人乗り組む。捕獲した鯨は母船の船側で、海の中で解体しブラバーのみを回収する。残った鯨体は全て捨て、甲板で油を絞る。
アメリカ捕鯨が対象にしていた鯨種は北極圏捕鯨の伝統をもつセミクジラ(right whale)と17世紀に価値が認識され始めたマッコウクジラ(The whale)。この2種を世界中の海で追う。1770年代には赤道を超える、1780年代 ケープホーンを超える。1790年代に太平洋に入り、太平洋の膨大なクジラ資源を発見。
ガラパゴスから沖合にクジラ漁場を徐々に発見し、1818年 Japan Groundsにたくさんのマッコウがいることが報じられる。Japan Groundsは北緯25-40゚、東経125-150の広い範囲を示す。ここに1818年~21年には3隻が操業。オホーツク、カムチャッカ、ベーリングと漁場を広げていくが、カムチャッカ、ベーリングは10年で資源量が減っている。資源が減ると新たな漁場を開発しながら移動していく。函館はこの開発運動の中心地になっていった。
このように、網とり式捕鯨と帆船捕鯨には大きな違いがあった。網とり式網代を基地とした陸地型であるのに対し帆船式は漁場を移動する海洋型捕鯨、また、帆船式は科学的操業を行うのみであったが、網とり式はそれに加えて儀礼・儀式も行った。資源の利用方法は、網とり式はハーベスティング型(収穫型)であるのに対し、帆船型はマイニング型(採掘型)、あるいは環境持続型に対して、環境破壊型とも言えるかもしれない。
■捕鯨船 Florida号の航海
最後に、函館を拠点に活動したアメリカ式捕鯨船の一例として、Florida号の航海日誌を追ってみよう。Florida号はShip型帆船。船長はThomas W. William。乗組員 33名。この船の1858年9月7日~1861年を見てみる。この期間の主要漁場は日本海である。
1958年9月7日 New Bedfordから出港、喜望峰に向かう、オーストラリア、ニュージーランドを経て日本へ。
1858年10月8日 アフリカ西海域。船長の妻が病気になる。
1858年10月12日 Cape Verde諸島 Brava島へ。船長、妻を伴って下船
1858年10月14日 Cape Verdeにいるポルトガル人6人を補充、豚20頭、バナナ、サツマイモ(Sweet Potate)を入手
一航海に5年もかかることがあることから、妻を乗せて行くことがある。
1858年10月24日 赤道通過 マッコウを捕獲しながら大西洋を何頭へ
1858年11月25日 喜望峰を通過インド洋へ
1858年12月4日 セミクジラを発見
1858年12月20日 マッコウ2頭を発見
1858年12月25日 搾油作業(クリスマスでも休まない)
1859年1月17日 ニュージーランド
1859年4月 琉球列島を北上
1859年4月4日 佐賀沖合
1859年4月8日 朝鮮海峡を通過
1859年4月9日 イルカの大群 数千頭
1859年4月10日 セミクジラを発見。後半、4頭発見。アメリカの捕鯨船と同道。
1859年4月11日 セミクジラ2頭を発見
1859年4月14日 漁船を目視(日本の漁船)
1859年4月17日 セミ2頭
1859年4月19日 北緯37゚20' 東経132゚20'に島を発見(おそらく竹島)、水を供給しようと試みるが失敗
1859年4月24日 セミ3頭発見
1859年4月25日 和船
1859年4月29日 ザトウ、ナガスクジラを発見
1859年5月5日 東南東へ舵を取る。午後1時島を確認(おそらく松前小島)。5時。2頭のセミクジラを発見。捕獲するためのボートを下ろす。失敗。後半、南から微風、船は津軽海峡に入り函館に向かう。日本海に入ってから、鯨類を発見はしているがセミクジラの捕獲に成功していない
1859年5月6日 6時 函館港に投錨。水深6.5ヒロ 後半上陸 水のためボートを送る。
1859年5月7日 水200バレルを引き上げ。後半、スターボートワッチが休暇上陸。水補給のためボートを差し向ける。
1859年5月8日 スタボードワッチ休暇。70バレル水補給
1859年5月9日 ラボードワッチ。J B Oegood(新入捕鯨員)は見当たらず、棄船者とみなす。午前6時に出港
その後、ニュージーランド、日本海、函館、オホーツク、函館、ニュージーランド、黄海、日本海、函館、カリフォルニア、オホーツク、日本海、函館、オホーツク、カリフォルニアと北太平洋を回っていてその中心が函館。
函館は北太平洋捕鯨場のゲートウェイ。船員は函館入港を指折り数えて待っていたに違いない。
開港前後の函館の捕鯨
幕府は蝦夷地で産業を興そうと考えていた。日本でも捕鯨ができないかと考えていた。1800年には、エトロフに鯨組を派遣して調査させている。しかし、経費がかかること、ザトウクジラが多くセミクジラは少ないということがわかり、捕鯨を行う試みは中断してします。
安政に入り、下田・箱館の開港で、アメリカ人が日本近海が地球上で一番の鯨漁場だ(Japan Ground)と言っているのを聞いて、再び捕鯨を試みようとした。
箱館に入っている捕鯨船から捕鯨技術や操船技術を得ようと考えた。特に、アメリカ式捕鯨銃「ボンブランス」に興味を示し、開港してそれほど立たないうちに、物々交換で手に入れている。
和親条約開港から3年目、1857年には国産のアメリカ式帆船「箱館丸」ができた(西埠頭に復元船が展示されている)
これに乗って、1858年に、千葉勝山の捕鯨チーム「醍醐組」が箱館に到着。4月20日に根室に向けて出帆し、さっそく、セミクジラに遭遇し、親は逃がしたが子を仕留めた。幸先が良いと喜んだという。ボンブランスで捕獲した。これがボンブランスでの日本人の初捕獲。
その当時日本で西洋式捕鯨を一番知っていたのは土佐の漁師中浜万次郎1841年に漂流して沖ノ鳥島に漂着、アメリカ船に助けられ、1951年に沖縄沖で捕鯨船から脱走するまでの11年間、アメリカ船で西洋式捕鯨を見聞きしていた。この万次郎が醍醐組と合流して、函館から箱館丸に乗り組み、醍醐組を指揮させる予定だった。しかし、万次郎は新しい捕鯨技術であったボンブランスを知らず、また醍醐組が万次郎の指揮下に入るのを拒み、結局何も出来ずに戻っていった。
本日配られているチラシ、「蝦夷風物の図のうち、箱館間で鯨猟」というもの。書かれたのは1858年というから、ちょうど醍醐組が来た年。これは確証がないが、私は、この絵が日本人がはじめてボンブランスで捕獲したときの絵だろうと思っている。
ここで取られるセミクジラ。噴気がVの字になるのが特徴。2本の潮を吹く。日本近海で2本の潮を吹くのはセミクジラだけ。日本人の鯨のイラストは大抵2本の潮が描かれているが、これは、この絵にあったように、普通に陸上からセミクジラを見ることができて、皆、それを見て2本の潮吹きを描いた。
しかし、欧米の捕鯨船がこのセミクジラを取り尽くした。その結果、日本近海のセミクジラはほぼ絶滅した。セミクジラの寿命は少なくとも30~40年。近縁種には100年以上生きたものも見つかっている。
私は、乱獲防止が専門。こういう長寿命の資源は乱獲に弱い。取りすぎると確実に減っていって、回復するのに非常に時間がかかる。1年間に資源の1%以上取ると、危なくなってくる。マイカの漁獲割合は18%、40%とっても乱獲にならない。
欧米船を中心に、1920年頃までセミクジラを乱獲し、それが90年経っても回復してこない。セミ鯨は本当に乱獲に弱い。
だから鯨を捕ってはいけないか。そうではない。イカは来年どれくらい発生するか分からないが、鯨は今年いるものは、ほとんど確実に来年もいる。だからどのくらい資源があるのかが非常に見積もりやすい。だから、確実に資源管理をすれば、安定して資源が取れる。
また、セミクジラの回復が遅れている原因の一つには、セミクジラが食べていた餌をミンククジラのような他の小さいクジラが食べてしまっていること。小型クジラは寿命も短く繁殖力が強いので、餌が余ればすぐに増えてしまう。
保護すべきクジラは保護し、たくさんいるクジラは大切にいただくべき。
今、函館ではツチクジラを捕獲。日本海に1500頭以上いると言われているが安全に安全を重ねて年間10頭を捕獲。10頭以上取ろうなんていうことはできないし、全てのクジラ肉のDNAが登録されているので、密漁しても流通できない。
昔はクジラ乱獲の基地だった函館が、今はクジラの持続的利用をする場所に変わった。函館の歴史が、人間と鯨の付き合い方を教えてくれているように思う。
※講演要旨については、私のメモであり、内容の正確性については保障しません。誤り等、お気づきの方はお知らせ下さい。






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